yomimaruが思うに、

ここでは“ヨミマルと”名乗ることにしました。よろしくお願いします。

感受性とはなんぞや。

私は自分のことを、感受性が乏しいと思っていました。

喜怒哀楽の振り幅は少ない方だと思います。

他人の気持ちに鈍いと思うし、無感動で何も感じない、何とも思わない事はしょっちゅうです。

 

以前バイト先の後輩に、

「僕、ちょっとだけ手相が見れるんですよ」

と言われて、ちらっと見てもらいました。

「あ、感受性が強いですね」

と彼が言ったところで来客があって、そのまま雑談終了。

手相とはいえ心底意外だったので、それ以来、

『感受性ってなんだろう?』

と考えるようになりました。

 

それ以降、よく雑談をする人たちから言われることはあります。

「言われてみてばそうかもね」

「そんなこと考えてるの?」

「考えたことなかった」

「普通気づかないよ」

「そんなこと分かるの?」

そしてついには、

「前々から思ってたけど、感受性が強いよね」

と言われて、かの後輩を思い出しました。

 

何に対してそう言われてるのかと言うと、

 ここ、たばこ臭いですね。

 雨の匂いがしますね。じめっとしてきたから、雨が降り出したのかも。

 さっき一緒に聞いた音楽が頭にずっと流れています。

 ここがズレてると気持ち悪くないですか?

 こういう意識で仕事に取り組んでいます。

 さっき〇〇さんが電話口でこんな話してましたね。

 

そんな感じの、ごく普通のことです。

書き出してみたものの、自覚がないのでどこでそう思われたのかイマイチわかっていないです。

会話の流れとか細かい内容もわからないと思いますが、そもそもそういう話を言うことで『感受性が強い』と思われるようです。たぶん。

 

でも、前半の天気の話とかは雑談として定番だし。

音楽だってずっと同じ曲が脳内再生されること誰でもあるでしょう。

仕事や上司の話になれば、自分がどういう意識でそれらと向き合ったり、逆にスルーしたりしてるか、という話にもなりますよね?

(ただ愚痴を言って共感するだけというのは性に合いません。解決策を考えて言っちゃう、俗に言う男性脳だとは思います)

同じ空間で誰かが電話でもしていれば話が聞こえてくるし、近くで報告したりしてれば、自分に関係なくても知ることになるじゃないですか。

 

言う言わないの違いはあるにしても。

逆にそんなことを全く考えない、気づかない人っているんでしょうか?

ただ、私が言ったことで相手が初めてそういう事に意識が向いた、という事と頻繁に遭遇すると、私の感受性は強い方なのかな、と思うようにはなりました。

 

いや、私に「感受性が強い」的なことを言ってる人たちが、むしろ感受性が低いのでは?

でもでも、その人たちは、私よりよほどドラマや映画で感動してるし、怒りやストレスを感じて余裕がなくなったり体調に出たりしてます。

それは感受してるということでは?

 

結局、感受性ってなんなんでしょうね?

スパッと割り切れないのはわかりますが、私が思考している方向だって、いやそれは感受性とはまた違うでしょ、ってことかもしれないし。

 

うむむむ。。。

 

エホバの証人と虐待。と、私。

私は、元エホバの証人の2世信者です。

2世ゆえ、信者だったかどうかは疑問ですが、ラベルを付けるならそうです。

エホバの証人として記憶があるのは4、5歳くらいからです。

 

さて、ときどきエホバの証人2世や3世らが虐待を受けたと訴える話が出てきます。

 

以下の話は、あくまで私個人の経験と主観によるものです。

私はすでに辞めていますけど、エホバの証人をとくに目の敵にはしていないので、批判もしますが擁護もしてます。ご了承を。

 

私の母を含め、当時の私の周辺のエホバの証人は、”ムチ”と称して、お尻を叩く”躾”をしていました。

ウチは短いホースでしたが、マジでむちゃくちゃ痛いです。

インタビューを受けてた人たちのように、水がしみたり座れないとまでは無かったですが、叩かれた後はミミズ腫れにはなっていました。

 

もっとも、エホバの証人が組織としてその躾方法を推奨していたかと言われたら、そんなことは無かったと思います。

子供ながらにわりと真面目に講演を聞いていた私の知る限りでは、そんなふうに指導をしているのは聞いたこと無いです。

どちらかというと、躾に限らず指導や教育に関しては言葉で諭す方法が賢いとされてた感じでしたし、非暴力不服従ガンジーのようなことを好んでいる宗教です。

ただ、エホバの証人内のママ友同士の会話の中ではムチの話は何度か聞いたことあります。

子供をしつける方法として、効果があると認知されていたと思います。

逆に、組織もそれは知っていたと思いますが、そういう躾を止めるようにというお達しはとくに無かったと思います。

 

まぁ私が子供の当時は、クレヨンしんちゃんもアニメの中でみさえにげんこつされてましたからね。

痛さの比ではありませんが、多少の体罰は当時は世間にも普通にありました。

ただ素手じゃなくてムチっていかにも西洋っぽい。

聖書の中でも(本物の)鞭はよく出てきますが、キリスト教でムチって出てくるんですかね。

エホバの証人特有なのは何故なんだろう?、もしかして私が知らないだけで、なんらかの組織的なきっかけが存在したのかもと疑問もあります。

 

ムチの後、抱きしめて「愛してる」と言う、というのもありました。

アメとムチのアメですね。

直訳的な表現なので、ウチの母はそのままは言ってなかったと思いますが、抱きしめて「あなたのこと大事なんだよ」とか何かしらのフォローをするのです。

(DV男みたい。笑)

 

当時の私の気持ちは、というと、、、実は母に殺意を持っていました。

 

抱きしめて撫でられ、私はごめんなさいと言うことで母の躾のシナリオに従いながら、「こんなんで誤魔化されると思うなよ」と思っていたのです。

母の怒りが収まってホッとする・・・なんて健気な子供じゃありませんでした。

「中学生くらいになれば、大人と同じくらいの体格になって力も付くだろうから、その時にはボッコボコにしてやる」

・・・と、思っていました。

体罰は無意味どころか逆効果ってことですね。

いや、ガチの虐待なら、そんな反骨心すら持てないのかもしれませんが。

 

もっとも、思っていただけでホントに実行するつもりはありませんでした。

母をねじ伏せる力を持つ頃には、ねじ伏せる必要が無くなるだろうことは、なんとなくわかっていましたし。

当時はそう考えることで母への怒りをおさめていたのです。

 

実際のところ、成長とともにムチの出番は減っていました。

私の記憶では、初潮が来てまだ母に言えてなかったときにちょうど叱られる事が起こり、「(ムチをするから)お尻を出しなさい」と言われ、渋々脱いだら・・・となったので、それっきりです。

私の母はムチ以外の暴力はとくに無かったし、子供が成長し、ムチに頼った躾は必要なくなり、やめたのだと思います。

 

ニュースで見る2世や3世の話を聞くと、エホバの証人目線でもドン引き事案です。

そんな自ら考えるの放棄した狂信者と、聖書研究者のエホバの証人を一緒にしないでほしい、と正直思います。

まぁ、私はもうエホバの証人じゃないんですけど(笑)

 

結局、変な躾の方法が出回っているのは問題だけど、虐待が日常化して子供につらい思いをさせているのは親の問題だと思います。

それに、私の場合は理不尽な理由でムチを受けたことは無いです。

兄弟喧嘩をしたとか嘘をついたとか約束を破ったとか、普通の家庭でも親に怒られるような内容です。

エホバの証人の思考や活動に関することでは、怒られたりはしてもムチまで登場したことは無かったと思います。

そのあたりも、子供に訴えられるような親らと一緒にしてほしくないのですが。

組織に「虐待を容認していない」と言われた彼らは何を思うのか。

 

とはいえ、私の周りにいたエホバの証人だって、間違った情報や考えを言っちゃってる事はあります。

実はたまに組織ごと「見解が変わりました」と発表されることもありました。

それを「人間は不完全だから・・・」で済まそうとすることにモヤッとするんですが、それはまた別の話か。

 

もう一度お願いします、と言われたら。

ときどき遭遇するんです。

電話などで、聞き取れなくて聞き返したときに、

最初と同じ調子でしか喋ってくれない人。

 

もちろん、それで済むときもありますが。

でも一度で聞き取れなかったのだから、

聞き取りにくい何かがあったということだと思うんです。

声量や音量、雑音、イントネーション、知らない言葉など。

 

例えば名前の場合、前後の脈絡は無いので聞き取るしかありません。

ゆっくり、はっきり言い直してほしいですし、

「あいうえおの”い”です」などの説明があるととても親切です。

 

あと、聞き慣れない言葉だった場合。

私は以前、ケーキ屋さんでバイトをしたことがあるのですが、支店だったので商品は工房から運ばれてきていました。

その中で、予約ではないフリーのホールケーキは、1種類につき1台か2台程度しか在庫していなかったので、夕方に在庫数の確認の電話がかかってきていました。

そのことをまだ知らずに電話に出た新人の私は、

「デコの残をお願いします」

と低めの早口で言われて、聞き取れませんでした。

2,3回聞き返しましたが、その方は、同じトーン、同じテンポで、

「デコの残です」とくり返すだけでした。

正直、私には何を言われているのかさっぱりだったので、

「デコノさん…?って、誰ですか?」

と聞き返したのですが。。。

結局、近くにいた先輩に電話を代わってもらいました。

後で分かったときに一人で内心大笑いしたけど。

「デコレーションケーキの在庫数を教えて」

と、ほんの少し丁寧に言い直してくれれば、新人の私でも答えられたと思うんです。

まぁ、社内とはいえ新人かどうかなんて分からなかったのかもしれませんけど。

 

なぜ、頑なに全く同じ言い方しかしてくれないんだろう・・・?

冒頭のくり返しですが、たま〜に、こういう人いるんです。

 

こういうのって、何なのでしょうね?

思いやり?

想像力?、シンパシー?

サービス精神とか、親切心?

コミュ力

 

うーん、私の耳が悪いのか、相手に求めすぎなのか。

それにしたって何度も聞き返されたってお互い良いこと無いですし。

話術なんて大層な技術を要求してるわけじゃないんです。

ただ、もう一度お願いしますと言われたときは、相手が聞き取りやすいように、ちょっと意識してほしいなと思ったのです。

 

そもそも論を好む

私はそもそも論が結構好きです。

というか逆に、本末転倒だとか、

手段や形式にとらわれて目的を見失う感じが嫌です。

 

「そもそも論」を検索しようとしたら「ウザい」も出てきました。

え、何故?と思って見てみると、要するに、それまで進めていたものを全否定するような発言について言っているようです。

会議が行き詰まったり、なかなか意見がまとまらないときに、

「そもそもこの会議必要?」

とか言われれば…うんうん、それは確かにウザい。

そう思うなら、もっと早く言えよ、となります。

 

私が思ってた「そもそも論」というのはそういうのではなくて、

そういうときに「そもそもこの議題があがった経緯は…」と、

原点に立ち返り、方向性を確認したり、

脱線の軌道修正をする意味合いで認識していました。

突然のちゃぶ台返しのように思われていたので意外でした。

 

もちろん時と場合によっては目的そのものが変化していく事もあるので、なんでもかんでも初期の目的にこだわりたいというわけでは無いですけど。

だだ、こういう経緯があって、今の目的はこうなったんだよ、というのは常に念頭に置いておきたい質なのです。

 

なぜそうなっているのか、

なぜそれがあるのか、

どのようにして作られたのか、

そもそもの理由を知れば、

もしくは『なにかしらの理由がある』

ということを気にかけていけば、

問題解決の糸口になることが多々あると思います。

 

それに、多様性とか、

他者への理解とか、

寛容な気持ちとか、

そのあたりにも少しは役に立つのではないかと思ったりしてます。

 

元エホバの証人2世です。2

そんな私が辞めた理由は、主に2つ。

 

1つは宗教臭さが目についたからです。

 

中学生になり、集まりも活動も面倒臭くなっていた頃です。

あるとき、数千人が集まる大会(講演会)で、

共感(拍手)を求めてワッと盛り上げる話し方をする人がいて、

あ、これは無理〜、と一気に忌避感が出ました。

そういう一体感とか高揚感とか集団で同調とか、

それまではそんなに無かったと思うし(多分…)、

エホバの証人にはそういうの要らないと思います。

ガッカリです。つまづきました。

 

 

もう1つは、それよりも前の出来事です。

記憶が曖昧ですが、小学校高学年だったと思います。

 

奉仕活動(あの、家を訪問するやつ)は私も嫌いでしたが、

「将来、営業職には絶対なりたくないわー」と感じる程度でした。

(ふと…私、あれは営業だと思ってたんですね、笑)

集会での実演も学校の面倒な課題みたいなもんです。

 

でも、あるとき訪問したお宅のご主人(60代くらいの男性)に、

「人々が苦しんでいるのは何故だと思いますか?」

というようなことを質問されました。

 

私はとっさに、なにが適切な答えか考え、

「悪魔サタン…?」と自信無く答えました。

すると彼は笑顔で「他人のせいにしてはいけないよ」と言い、

私の差し出していた出版物を受け取ると、

何を言えばいいか分からなくなった私に挨拶をして扉を閉めました。

 

私はまだ子どもだったので、後ろには大人の方が付いていました。

その頃の私は聖書研究を、親ではなく年上の女性にしてもらっていたのです。

家庭教師のような、新入社員の教育係のような存在です。

20歳とか20代前半で、私も大好きなお姉さんでした。

 

お姉さんは私に、

「まぁ、(冊子を)受け取ってもらえたから良かったじゃない」

と言いました。

ただ上手く答えられなくてプライドのようなものが傷付いたし、

後日、ほかの人や親から、何か言われるかな、やだなと思ったけど、

「なんか変わった人がいたんだってね~」と言われたくらいで、

とくに指導も励ましもありませんでした。

 

私はモヤモヤを引きずりました。

結局、あのおじさんの質問の正解は何だったのか。

悪魔サタンで合っていたのか。違うのか。

誰も教えてくれないし、何も言われない。なんで?

悪魔サタンはアダムとエバを唆して、彼らが罪をおかし、

そこから人間は不完全になり…って感じの聖書だけど、

世の中すべての苦しみの原因ではないと思う。

聖書にはなんて書いてあるんだろう…?

エホバの証人的には、何だと思っているんだろう?

そこで私は気が付きました。

 

その答えは『エホバの証人』の教えであって、私の考えではない。

私には別に、人々に伝えたいような信念は無い。

 

うん、辞めよう。

 

他にも細々した理由はありますが、

聖書やエホバの証人の教えを否定してるわけでは無いが、

少しずつ距離を取り、辞めました。

 

 

後から思うに、聖書にはあの質問への明確な答えは無いと思います。

もし今、私が信者なら、

「そうですね。

 聖書には、そのヒントが書かれているかもしれません。

 一緒に研究しませんか?」にっこり。

 

…なんか、ラノベの読み過ぎかもしれない。

 

元エホバの証人2世です。1

私は元エホバの証人2世です。

ブログを書こうと思った大きな要因なので、さっさと書いておきます。

とはいえ、よくある「トラウマです」的な話がしたいのではありません。

ブログをエホバの証人ネタ一色にするつもりも無いです。

 

私の物心かついたときから、母が信者でした。

私の中でエホバの証人は宗教ではなく、

歴史であり、生物であり、心理学で、道徳で、物語で、自然学で、

生活でした。

たぶん母にとっては、子育ての指南書の側面もあったと思います。

 

母は今でも信者ですが、信仰心というよりも、

聖書や真理について学んでいる研究者、というスタンスだと思います。

本人に言えば「いや、ちゃんと信仰もしてるよ!」と言われそうですが。

熱心すぎない、盲目的ではない、という意味のつもりです。

 

私は小さい時からわりと小狡いところがあったので、

私にとってポジティブな部分をそれなりに楽しんでいました。

面白い歴史物語や、

神の創造物である高性能な動植物の話、

気持ちの良い道徳観念と、

善良であろうとしてる大人たちとの交流などです。

いろんな世代の人がたくさん親切にしてくれましたし、

家族ぐるみのお付き合いができる家庭は1つ2つではなかったし、

(信者でないウチの父は入りませんが)

幼稚園や学校外で、学年の違う友達がいるのは特別なことでした。

お祈りとか面倒なことは形だけ真似して適当にやり過ごせば済んだので、

さほど重要では無かったのです。

 

続く。

思ったことを書いてみたくなった。

持ってる知識は浅くて大したことないし、

捨てたいのに全然捨てられてない偏見もある。

多角的な視点を持ちたいし、

いろんな考え方をしてバランスを取りたい。

誰かを傷つけたくないし、

でも言ってみないと分からないことも多いし。

 

うだうだと語る感じになっちゃうから、

あんまり身近な人たちに話したりはしないけど、

思ってる事を吐露したくて始めました。